[ 詳細報告 ]
分野名:細菌性感染症
登録日:2016/03/17
最終更新日:2016/05/26
衛研名:愛媛県立衛生環境研究所
発生地域:愛媛県松山市
事例発生日:1987年10月
事例終息日:
発生規模:
患者被害報告数:1名
死亡者数:0名
原因物質:ボツリヌスA型菌
キーワード:乳児、ハチミツ、ボツリヌス菌、アシドーシス、アセチルコリン阻害
背景:
ボツリヌス菌は芽胞を有するグラム陰性の偏性嫌気性桿菌で、土壌細菌として、いたる所に存在し、土、塵埃、食物を介してヒトと絶えず接している細菌である。この菌が産生する毒素はコリン作動性神経接合部に作用し、アセチルコリンの遊離を阻害することによって弛緩性筋麻痺を起こし、重篤な場合には呼吸不全で死亡する。菌型は毒素の血清型によって8型(A、B、C1、C2、D、E、F、G)に、また、生物学的生化学的諸症状によって1群(A型と蛋白分解性のB型,F型)、2群(E型と蛋白非分解性のB型、F型)、3群(C1型、C2型、D型)及び4群(G型)に分類されている。ボツリヌス中毒は食物中ではボツリヌス菌が増殖し、産生したボツリヌス毒素を摂取することによって起こる急性食中毒である。わが国では北海道や東北地方のイズシによるE型ボツリヌスがよく知られているが、E型菌以外の中毒例は1969年に宮崎県で輸入キャビアによるB型菌、1976年に東京でA型菌(原因不明)、1984年に熊本産辛子レンコン1)のA型の3例のみである。
1976年、アメリカで上記のボツリヌス中毒とは発生機序を異にする新しいタイプの乳児ボツリヌス症が報告2)された。本症は生後6ヶ月未満の乳児に見られ、ボツリヌス菌の芽胞が経口的に消化管に入り、腸管内で増殖し、産生された毒素で中毒症状を起こすと言われている。症状は便秘、嗜眠、哺乳力低下、嚥下力低下等を呈し、進行すると呼吸麻痺、気道閉塞を起こし死亡するが、これまでの報告書では軽症例から乳児突然死症候群の原因と考えられるものまで、その重症度は異なる。原因は主としてA及びB型菌によって起こっており、多くの症例で便からボツリヌス菌と毒素が検出されている。さらに、感染源調査において多くの患者がハチミツを食べており、ハチミツからもボツリヌス菌が検出されることから、原因食品としてハチミツが重要視されている。わが国では1986年にA型菌による乳児ボツリヌス菌症が2例発生しており、本症例3)は3例目であった。
概要:
患者は135日齢の男児。家族歴及び既往歴に特記すべき事項はなく、在胎39週、正常分娩にて出生。生下時体重3,300g、生後2ヶ月まで混合栄養、その後人工栄養となりさらに3ヶ月より1日1回果汁及びハチミツを摂取するようになった。
1987年10月2日(135日齢)より急に哺乳力が低下し、泣き声も元気がなくなり不機嫌となった。10月7日近医を受診し、5日間排便がなかったので浣腸し緑色普通便中等量を排泄したが、症状の改善をみないため、10月8日松山赤十字病院小児科入院となった。経過中、発熱、咳そう、嘔吐、下痢はなかった。入院時で最も目立ったのは呼吸性代償を伴うケトアシドーシスであった。入院後の経過は哺乳力低下、全身筋緊張低下、便秘を特徴とし、特に意識障害はなく、脳波も徐波化はなく髄液も正常であった。経過中発熱もなく脳炎は否定的であった。まず対症的に脱水とケトアシドーシスの補正を試みたところ、血液ガス所見は容易に改善した。しかし、哺乳力低下、全身筋緊張低下は全く改善しなかった。次に患者が摂取していたミルクを経鼻管栄養にて負荷したが、検査所見の増悪はなく代謝異常を示唆する結果は得られなかった。入院時の代謝性アシドーシスは一時的なものではなく哺乳力低下に伴う飢餓によるものと考えられ、次に急性発症の神経筋疾患が最も疑われた。患者は生後90日頃からハチミツを摂取していることから乳児ボツリヌス症が疑われた。22病日、筋電図検査を行い、これより本疾患は、神経、筋接合部のシナプス前からのアセチルコリン障害であることが示唆された。
原因究明:
細菌学的検査と治療内容
衛生研究所ではボツリヌス毒素及び菌の検出を行った。被検材料は患者の糞便、血清及び使用していたハチミツを用いた。毒素の検出は糞便に等量のゼラチン希釈液(0.2%ゼラチン、0.4% NaHPO4、PH=6.2)を加え乳剤として4℃で一晩放置後、遠心(10,000rpm、30分)して上清を得た。
その0.5mlを20~26gのddy系マウス腹腔内に注射し、マウスが典型的な症状(腹式呼吸となり腹壁が特異的に陥没、後肢や全身の麻痺、呼吸困難)を呈し弊死するのを確認した。
さらに上清を100℃、10分間加熱して無毒化することを証明し、次に上清1mlに抗毒素血清(A、B、C1、C2、D、E、F型)を各0.25ml(10IU/ml)ずつ加えて、37℃、30分間反応後0.5mlをマウス腹腔内に注射し毒素中和試験を行った。菌の検出は糞便懸濁液をブドウ糖、澱粉加クックドミート培地で30℃、4~7日間嫌気条件で増菌後培養上清の毒素の有無、さらに毒素中和試験を行った。毒素が検出された培養液を0.5%卵黄加GAM寒天培地で30℃、2~3日間嫌気条件で培養後、疑わしい集落を簡易同定キットIDS Rapid ANA Systemを用いて菌の同定を行った。ハチミツは20gに蒸留水100mlを加えて加温攪拌し遠心(10,000rpm、30分)後、沈渣を増菌培養し毒素及び菌の同定を行った。血清は0.5mlをマウス腹腔内に注射し毒素の有無を調べた。
その結果、20病日の糞便からA型ボツリヌス毒素(2×103ipLD50/ml)及び菌が検出された。一方、飲用していたハチミツからもA型ボツリヌス菌が検出された。
しかし、10病日目の血清からは毒素は検出されなかった。さらに、IDS Rapid ANA Systemによる菌同定の結果、糞便及びハチミツから検出された菌は同様な性状を示した。乳児ボツリヌス症の治療は原則として対症療法であり、第一は呼吸管理、第二は栄養管理である。本症例は経過中呼吸不全は認められなかった。栄養管理については、哺乳力低下のため経管栄養が必要となる。抗生物質の使用については、臨床経過や糞便中の菌及び毒素に顕著な効果を認めた例がないこと、aminoglicocid剤の使用で呼吸症状の増悪を見た例があることより、一般に合併症が無い限り使用されない。また抗毒素療法については、血清中に毒素が証明された例が少ないこと、アナフィラキシー反応を起こす危険性があること等によりあまり使用されない。本症例の治療でも合併症の予防に努め、哺乳力回復まで経鼻栄養とした。抗生物質は、PC-Gを21病日より3週間投与したが、はっきりした効果は認められなかった。哺乳力は35病日より少しずつ回復し始めたが、経鼻栄養の中止を得たのは64病日以後であった。眼瞼下垂、対光反射の遅延は24病日までに軽快した。
引き起こし反応における上肢の屈曲は47病日以後、頚定及び頭部の保持も57病日以後安定となった。さらに寝返りも62病日以後始め、お座りも74病日以後出来るようになった。経過中呼吸不全は認められなかった。
診断:
地研の対応:
行政の対応:
乳児ボツリヌス症の感染源については、ハチミツ、ハウスダスト等が考えられているが、北米、南米、ヨーロッパ、オーストラリアで現在までに報告された約650症例のうち約1/4はハチミツを介してボツリヌス菌を摂取したことが判明している。米国では市販ハチミツの10~15%からボツリヌス菌が検出されている。わが国においても、厚生省の昭和61年厚生科学研究事業の報告では、巣箱から直接採取したもの、市販品、国産品、輸入品原料及び輸入製品中512検体のうち27検体(5.3%)からボツリヌス菌が検出されている。なかでもA型菌が11検体と最も多いと報告されている。厚生省は昭和62年10月20日、「乳児ボツリヌス症の予防対策について」で、「1歳未満の乳児にハチミツを与えないよう指導するよう」通知を出している。毎年繰り返して母親に指導していくことが実行可能な予防法であろう。さらに医療従事者への普及啓発も大切で、分類不能型ボツリヌス症の存在も考慮して、両側性筋麻痺を呈する疾患についてはいかなる年齢でもボツリヌス症を鑑別診断の1つに加え、大便中のボツリヌス菌及び毒素の検査を行うよう心がける必要がある。
地研間の連携:
国及び国研等との連携:
事例の教訓・反省:
現在の状況:
今後の課題:
現在、ボツリヌス症の確定診断は便中のボツリヌス毒素と菌の証明である。しかし、毒素の証明はマウスを用いた中和試験で行われており、また、菌の検出も嫌気培養法で実施しなければならない。マウスを一般の検査室で常時飼育することは難しく、毒素の中和試験や菌の分離同定も煩雑で時間を要する。今後、これらの検査を迅速かつ確実に行うには遺伝子増幅反応による遺伝子学的検査法やELISAなどの免疫学的検査法が導入可能と思われるが、それらの検査法の標準化が必要と思われる。さらに患者発生時の迅速な検査体制を医療サイドと検査機関が常時確保しておく必要があり、そのためのシステムの構築が必要と考える。昭和62年の厚生省通知から既に10年経過し、「災害は忘れた頃にやって来る」を想起して母親指導を再開すべきである。
問題点:
関連資料:
1) 道家直:熊本県衛生公害研所報、14, 20(1984)
2) Pickett, J. etal: N. Eng. J. Med., 295, 770(1976)
3) 鍋屋孝司ほか:J. Japan. Asso. Infec. Dise, 268 (1989)