No.931 有毒ガス中毒事故(松本サリン事件)における原因物質の究明

[ 詳細報告 ]
分野名:その他
登録日:2016/03/11
最終更新日:2016/05/27
衛研名:長野県衛生公害研究所
発生地域:長野県松本市
事例発生日:1994年
事例終息日:
発生規模:
患者被害報告数:推定患者数:591名
死亡者数:7名
原因物質:サリン
キーワード:サリン、有機リン化合物、コリンエステラーゼ、GC-MS、リテンションインデックス

背景:

概要:
1994年6月27日深夜、長野県松本市の住宅街でアパートや民家など数十世帯の住民が目の前が暗くなったり、せき込んだりといった症状を訴えて次々と倒れ、救急車で病院に運ばれた。被害者は死亡者7人・入院患者56人など590人余に達した。また、死亡者は総てアパートの住民で、2階2人、3階4人、4階1人と高い階に集中していた。その他、路上や庭先では小鳥や飼い犬などの死骸が見つかり、池では魚やザリガニが死んでいた。(本事件は、警視庁及び長野県警の捜査により、その9ヶ月後の1995年3月に発生した東京地下鉄サリン事件とともに、O宗教団体幹部らによる犯行と判明した。)

原因究明:
1) GC-FPD(P)およびGC-MS(EI)による検索
試料到着後、水質部、大気部では水質汚濁防止法や大気汚染防止法等公害関係法規等で規制されている物質について、検査を始めたが、これらの物質は検出されなかった。
他方、水質部、大気部、食品衛生部の職員4名からなるGC-MS分析検索班を編成した。検索班は有機リン化合物に焦点を当て、まずリンを高感度で検出するGC-FPD(P)による予備実験およびGC-MSによる検索を始めた。すなわち、試料をジクロロメタンで抽出、脱水、濃縮後アセトンに転溶、濃縮したものをGC-FPD(P)にかけてスクリーニングする。その後GC-MS(EI)にかけ、得られたマススペクトルをGC-MS付属のライブラリーと比較して、対象とする物質を確認するものである。
何回かの試行の末、池の水のトータルイオンクロマトグラムのマススペクトルの一つがライブラリーのSarinのそれと一致した。そして、その結果を夜遅く県に報告した。しかし、サリンは戦争以外に使われた記録が無く、それがなぜ地方の一都市で発見されたのか全く想像できなかったこと、更に当所のライブラリーの信頼性を確認するため、深夜、国立衛生試験所(現、国立医薬品食品衛生研究所)に当所と異なるライブラリーの検索を依頼した。その結果、当所の検索に間違いがないことがわかった。
2) リテンションインデックスおよびGC-MS(CI)による検索
サリンの標準物質がなく、マススペクトルだけでサリンと特定することには不安があったため、リテンションインデックスおよびGC-MS(CI)による検索を行った。
リテンションインデックス(相対保持指標)は、GCのリテンションタイムを標準となる物質(直鎖のアルカン)により指標化したもので、この数値の比較により同一物質か否かを判定するものである。当所には、Sarinのリテンションインデックスがないため、国立衛生試験所に文献の検索を依頼して入手した。Sarinのリテンションインデックスの文献値は954.5である。C9、C10n-アルカンを指標としてリテンションインデックスを測定したところ953で、文献値とよく一致した。
GC-MS(CI)は、目的とする物質の分子量を推定する方法である。イソブタンを用いて、試料分子をイオン化し測定したところ、CIのマススペクトルには、Sarinの擬分子イオン(MH+)と考えられるM/Z-141のピークが見られ、サリンの分子量140.09とほぼ一致した。
3) メダカ、アカヒレによる毒性実験
試料として採水した池の水およびその池に注いでいる地下水をそれぞれビーカーに取り、それにメダカ、アカヒレ各々5匹を入れて状況を観察した結果、池の水の場合、メダカでは1時間、アカヒレでは2時間以内に全部が死んだ。
4)原因物質の特定
以上、GC-MSのEIによるマススペクトル、CIによる分子量の推定、リテンションインデックスによる分子量の確認およびメダカ、アカヒレによる毒性実験を総合的に判断し、原因物質をSarin(C4H10FO2P)と特定した。
なお、屋内からもサリンと推定されるピークが検出された。

診断:

地研の対応:
当所の対応
1)現場出動と試料の採取
公害課からの出動指示に対応するため、急遽サンプリング機器をかき集め、午前9時、水質部及び大気部の職員3名が出発した。松本保健所職員の案内で現地に到着した職員は、午前11時頃から約1時間かけて、現場付近の池の水及び民家の屋内空気を採取した。池は魚やザリガニ死骸が多数見つかり、周囲の植物が枯れて発生源と思われたところであり、民家は消防署へ事件を最初に通報した被害者の2階であった。なお、当初は試料採取場所として死亡者が発見されたアパートの部屋を考えていたが、当該場所は警察の現場検証等が行われており、やむなく場所を変更したものであった。採取した試料は午後2時30分頃当所に到着した。
2)何を分析対象とするかの検討
試料の採取に職員を送り出した後、蔵書を集め、原因物質を推測した。中毒の一般的な症状については(財)日本中毒情報センターにも照会した。そして、ホスフィン、ハロゲン
化ガス、有機リン化合物等を想定した。このうち、有機リン系の農薬を最も疑ったが、それは、被害者にコリンエステラーゼ活性値の低下、縮瞳、視野狭窄等がみられるとの関係医師の話を伝えるラジオ、テレビの報道があったからである。

行政の対応:
地元消防署からの通報により、松本保健所職員が事故現場に急行して被害状況等の情報収集に努めたが、原因の手がかりとなる情報は得られなかった。また、それらの状況やマスコミ報道等をもとに県の公害課は当所に対し、生活環境の保全の見地から、事件発生9時間半後の27日午前8時半頃、現地に赴き試料を採取するよう指示してきた。また、松本保健所からも当所へ職員の派遣の要請があった。その結果、当所では職員を現地に派遣することとなった。
なお、原因物質の究明の過程における、分析数値や解析状況は総て公害課に報告し、また、報道機関に対する発表も公害課並びに保健所が行った。

地研間の連携:
当所のサリン検索結果をもとに長野県科学捜査研究所が別の検体について試験したところ、同様にサリンが検出されたことから、事件発生6日後の7月4日、長野県並びに長野県警から「原因物質はサリンと推定される」旨公表された。なお、同日、開催された地衛研協議会の関東甲信静支部総会においては、口頭で検査結果をお知らせした。
また、半年後の平成7年2月、長野市で開催された地衛研協議会の関東甲信静支部の理化学部会においては、スライドを用いてサリン分析法を照会し、またサリンの物性、毒性等の資料を配布した。
更に、平成7年3月20日、東京都で発生した「地下鉄サリン事件」の際には、全国の約30機関から、サリンに関する照会があり、分析法および物性・毒性・治療等の資料を送付した。
なお、同年5月には「松本市における有毒ガス中毒事故の原因物質究明に関する報告書」(全40頁)を、また、9月には、同様な事案に備えるため「緊急事故対策のためのマニュアル」(全42頁)を作成し、照会のあった機関に配布した。

国及び国研等との連携:
多数の被害者を出した事件の原因の究明は、緊急を要した。その中で、次の機関に情報の入手を依頼しまたご意見を求めた。
1)国立衛生試験所
2)(特)日本科学技術情報センター
3)(財)日本中毒情報センター
4)筑波大学内藤教授(当時)
これらの機関からはほしい情報が直ちに届けられ、原因物質の究明等に役立てられた。特に国立衛生試験所からは、サリン特定の過程及びその後にも、性状、合成法、毒性、代謝、治療に関する文献等多くの情報をいただいた。これは当所と国立衛生試験所には以前共同研究した人的な繋がりがあり、それによって深夜に及ぶ検索が可能になったもので、改めてヒューマンネットワークの重要性が再認識させられた。

事例の教訓・反省:
本事件は、結果的にはO宗教団体が引き起こしたものであったが、従来このような場合「事件は警察の守備範囲」として、行政機関が関与する例は少ないと思われる。しかし、今回は被害が深刻且つ甚大で、原因物質の特定にめどがつかず、従って生活環境の保全上行政が関与せざるを得ないとの見地から、当所が調査に参加した。それにより、結果的には、長野県警に先駆けてサリンを検出したが、毒物等の鑑定に多くのノウハウを持つ県警に先んじえたのは、夾雑物の多い環境試料から多成分の微量化学物質を同時に検索すると言う、“環境公害研究機関が行っている検査・分析手法”が威力を発揮したと言える。

現在の状況:

今後の課題:
今後、今回のような事件に直接関与することは無いと思われるが、多くの化学物質や化学製品が市場に流通し、また、それらが廃棄物として処理される過程等を考えると、ダイオキシンの様な毒性のある物質が予期せず発生又は生成する可能性は否定できない。また、そのような時に、事件か事故かを判断している時間的余裕はないと思われる。
従って、このような緊急時にも、衛生環境公害研究機関が持っているこうした特性を発揮できるような体制の整備、すなわち、危機時における管理体制の確立が望まれる。当面、当所にとっては次のような問題を解決する必要があると考えている。
1)情報検索機能の充実、複数スタッフの配置等情報収集処理体制の整備
2)LC-MS、ICP-MS、GC-AED等高感度・高精度分析機器の整備及びGC-MSライブラリーの拡充
3)ダイオキシン等有害化学物質分析設備(ケミカルハザード対応施設)の整備
4)研究職員の質的レベルの確保
5)現場に無防備で入り、採取器具も急いでかき集めて出動したこと等多くの反省をもとにした緊急時対応マニュアルの作成

問題点:

関連資料:
1) 長野県衛生公害研究所:「松本市における有毒ガス中毒事故の原因物質究明に関する報告書」1995年5月
2) 丸山節子:「松本サリン事件の原因究明と情報収集」長野県薬誌りんどう、242, 5~8(1995)
3) 松本市地域包括医療協議会:「松本市有毒ガス中毒調査報告書」1995年3月
4) 降籏敦海:「松本市における有毒ガス中毒事故への対応」水環境学会誌Vol.19、No.2(1996)
5) 佐々木一敏:「サリンおよび関連化合物の分析法」第17回日本環境化学会予稿集、26~32(1996)
6) 鹿角孝男:「松本市有毒ガス中毒事故(松本サリン事件)現場周辺で発現したドクダミ葉被害調査」第32巻、第3号(1997)