No.938 荷役作業におけるパラニトロクロロベンゼンの急性中毒

[ 詳細報告 ]
分野名:その他
登録日:2016/03/11
最終更新日:2016/05/27
衛研名:大阪府立公衆衛生研究所
発生地域:大阪南港
事例発生日:1984年7月5日
事例終息日:
発生規模:
患者被害報告数:11名
死亡者数:0
原因物質:パラニトロクロロベンゼン
キーワード:パラニトロクロロベンゼン、急性中毒、メトヘモグロビン、ハインツ小体、ジアゾ反応陽性物質

背景:
パラニトロクロロベンゼン(以下PNCBと略す)は染料の中間体として広く利用されており、その生産量は1984年当時、年間2万トン、その内約1万トンは自家消費されており、残りは国内外に陸送あるいは船舶により出荷されている。PNCBの取り扱いについて、メーカーから一応の基準は示されているが、必要な対策は充分に伝達されておらず、作業者はその毒性、取り扱い方法などについての説明を充分受けていない現状があった。
また、港湾に役作業における有害物の取り扱い作業による事故例はPNCB中毒以外にも他の化学物質による中毒や酸欠など散発していた。

概要:
はしけに積まれた紙袋詰めのパラニトロクロロベンゼン(以下PNCBと略す)25Kg入り紙袋8,000袋をモッコ及び本船揚貨装置を使って本船へ船積み中、紙袋の一部が破れ、中のPNCBがこぼれたため、それが身体に付着したり、その蒸気を吸入するなどにより本船船倉内で作業していた9名中6名、はしけ内で作業していた8名中5名の計11名がPNCB中毒で入院した。
PNCBは固体・フレーク状で5重層(内側よりポリエチレン、クラフト紙、セロハン、クラフト紙、クラフト紙)で表面にはPNCB(成分パラニトロクロルベンゾール)の品名および労働安全衛生法第57条による取扱上の注意事項の表示があった。
検数結果によれば、船積み時の破袋数は8,000袋中78袋であり、破袋はガムテープで補修し発送した。中毒事故発生のためメーカーが回収した時点における破袋数は263袋であった。
PNCBの船積みは、9時頃から14頃まで昼休み1時間を除き、約4時間にわたり行われた。作業ははしけの中央船底に2.5m四方の網モッコ4枚を敷き、約3mに積まれた袋を上部から両手で持ち運び、1モッコに約100袋積んで本船揚貨装置で本船につり込んでいた。本船では、既に積み込まれていた別貨物の上に、高さ2.6~3mに積み上げた。
作業開始30分後頃から顔、腹部、大腿、手などがピリピリする者もおり、午前の作業中から本船及びはしけの作業員の中には身体のだるさ、吐き気、頭痛を覚える者もあったが、責任者(デッキマン)には何も申し出ず正午まで作業を続けた。昼食は殆どの者が食欲がなく、茶漬けにしたり、残したりした。午後の作業開始間もなく本船で1名、はしけで1名作業ができなくなり倒れ、本船甲板の日陰で休んでいたが、作業が完了しても、倒れた作業員の様態は回復せず、独りで立てなくなったため、救急車で大阪船員保険病院に運ばれ入院し、はじめてPNCBによる中毒であることがわかった。医師の指示で同じ症状を訴える作業員を受診させたところ、入院を要する者が発見され、また、作業後飲酒して帰宅途中、意識を失い他病院に入院した者もおり、合計11名が入院した。
入院患者のうち特に重症者の症状の経過を示す。
作業日(7月5日)の昼前に吐き気、めまいを感じ、昼食を半分ほど取り、昼休み中横になっていた。午後の作業開始後数分間意識を失ったため作業を止めて安静にしていたが状態が良くならず、16時に大阪船員保険病院に入院。入院時はチアノーゼを認め、呼吸困難を訴え、酸素マスクを開始したが、めまい、発汗などの貧血症状は改善しなかった。この時の採血血液は墨汁様の色調であり、かなりのメトヘモグロビン血症と思われた。
発症翌日(7/6)、ヘモグロビン13.3g/dl、メトヘモグロビン51.2%、ハインツ小体を含む赤血球は488‰であった。その後、メトヘモグロビン濃度は次第に増加し、発症6日目(7/10)にはメトヘモグロビン66.7%、ハインツ小体994‰となり酸素テント内で意識を失ったため、4,000mlの新鮮血による交換輸血を行った。交換後にはメトヘモグロビン30.1%となり、貧血症状も軽減したが、翌日(7/11)にはメトヘモグロビン38.8%と再び上昇、発症8日目(7/12)に再度2,000mlの交換輸血を行った。
二回目の交換輸血後、発症9日目(7/13)にはメトヘモグロビン17.1%となり、その後は順調に回復した。ヘモグロビンは溶血のため次第に減少し、発症16日目(7/20)には最低値8.4g/dlを示し、以後順調に回復し、発症34日目(8/7)に退院した。その他の症例では、発症3日目頃にメトヘモグロビン濃度は一旦低下するが、発症5日目頃に再上昇をきたし、その後は次第に低下した。一方ヘモグロビンは溶血のため徐々に減少し発症14~21日目で最低となり次第に回復した。一般にニトロ・アミノ化合物は生体内で代謝を受け、尿中に排泄される。尿中代謝物はアミノ誘導体となるとジアゾ反応に対して陽性となるため、ジアゾ反応陽性物質の測定を行った結果、事故翌日の重症者では正常上限の10倍に近い4.69mg/mgクレアチニンが観測された。また、事故翌日のジアゾ反応陽性物質とメトヘモグロビン値とは高い相関(r=0.96)が認められた。ジアゾ反応陽性物質の半減期は約4日であった。

原因究明:
今回の中毒事故は、作業からPNCB以外の物質は考え難く、また、症状からも典型的なPNCB中毒であった。生体内に多量なPNCBが吸収された条件としては、以下の条件が重なり合った結果と考えられた。
1)PNCBは常温で結晶(融点38℃)であるが、昇華性があり甘い刺激臭が感じられるが、常温では中毒症状を起こすほどの高い気中濃度にはならないと考えられる。しかし、粉砕作業などで高濃度の発塵や、高温により気中濃度が著しく高くなったときは、呼吸器からの吸入により中毒症状を起こすおそれがある。
2)脂溶性(水には不溶)であるため、皮膚に付着した場合、経皮的に吸収され、中毒をおこす可能性がある。
3)本事例においては、荷役中に紙袋が破れ、内容物PNCBがこぼれ、作業環境中に散乱あるいは直接作業者の服や身体に飛散したため、経皮吸収またはPNCBの粉塵・蒸気を経気道的に吸収され、急性中毒を起こした。
4)作業当日は、夏期で気温も高いため、昇華によるPNCB蒸気濃度が高くなった。また、服装も薄く、皮膚の露出部分も多く、発汗のためPNCB粉塵が作業着や皮膚に付着しやすい状態であり、経皮的に吸収されやすいことが推察された。
5)体内に吸収されたPNCBはヘモクロビンに作用しメトヘモグロビンを生成し、酸素欠乏状態となる。このため、筋肉労働による酸素消費が高まると、重症化することから、筋肉労働の影響があったと考えられる。
6)PNCBの影響は、飲酒により急激に重くなることは、過去の事例から知られていた。今回、作業終了後の飲酒により電車内で意識を消失した事例があり、衛生教育の不足も本中毒の重症化を招いた。
7)PNCBがこぼれたことについては、包装が紙袋であり、モッコで多数の袋をつり上げる荷扱い方法では、強度不足であったため、多数の破袋を招いた。
8)取り扱い貨物の事前調査が行われていなかったために、適切な荷扱い方法や保護具の使用など曝露防止処置が講じられていなかった。

診断:

地研の対応:
事件発生当日(7/5)、大阪船員保険病院から、パラニトロクロロベゼンの急性中毒が疑われる入院患者について相談があり、血液、尿の採取を指示し、治療に役立つ指標として、血中メトヘモグロビン、ヘモグロビン、網赤血球、ハインツ小体、尿中ジアゾ反応物質などの測定の準備と検討を行った。翌日(7/6)より、これら試料の分析を最優先で行い、その分析結果は治療の指標として役立てた。この分析は患者の退院まで約1ケ月間連日続けた。また、これら試料を冷凍保存し、その後、パラニトロクロロベンゼンの生体内代謝の解
析や総吸収量の推定を行った。

行政の対応:
事故発生後、直ちに労・使、医療機関などにおいて被害の拡大防止、被災者の救済のための応急処置がとられる一方で、災害原因の究明と同種災害の防止対策の検討が関係機関で行われ、行政やメーカー商社運送業者など各機関で必要な処置が講じられた。
大阪労働基準局では、港湾貨物運送事業労働災害防止協会・大阪支部に対し、特定化学物質の荷役作業における健康災害防止対策を会員事業所に周知するよう通達(昭和59年8月27日、大基発810号)により要請した。
また、港湾貨物運送事業労働災害防止協会大阪総支部では危険品有害物専門委員会をもち、それぞれの分野における遵守事項を「PNCB船積み、船卸しに関する安全基準」として策定し、同支部及びメーカー、商社、労働組合がその内容に合意し、実行に移した。

地研間の連携:
特になし

国及び国研等との連携:
労働省産業医学総合研究所の主任研究官(医師)の協力を得た。

事例の教訓・反省:
有害物の港湾荷役作業の場合、事前連絡制度があるが、今回はそれが有効に働いておらず、また、特定化学物質作業主任の未専任や袋の表面に記載されていた袋の取り扱い上の注意事項の軽視なども充分な対策がなされなかった原因と考えられた。
この事故の教訓として改善が図られた事項は、

1)PNCB有害物質表示の内容の充実、
2)有害物事前連絡制度の徹底、
3)PNCB陸上輸送に係わる取り扱い注意事項の周知があげられた。

現在の状況:
港湾貨物運送事業労働災害防止規定は、従来、特定化学物質の荷役の際に漏洩があった場合に特定化学物質等作業主任者を選任することになっていたが、現在、作業の始めから主任者を選任するように改定された。
平成4年の法改正で、化学物質の安全取り扱いデーターシート(MSDS)の整備義務が制度化され、有害化学物質に関する情報が得やすくなっている。

今後の課題:
作業現場に対する安全衛生に関する法制度の整備は進んでいるが、荷役作業のような小規模事業所までには監視の目が届かず、これら法制度の実施は不十分である。これらについての啓発・教育がこれからの課題である。

問題点:

関連資料:
1)「パラ-ニトロクロルベンゼン中毒事故報告書」大阪労働基準局(昭和60年5月)
2)「港湾荷役作業者における急性パラニトロクロルベンゼン中毒例」田淵武夫ほか、大阪府立公衆衛生研究所報・労働衛生編、第23号25-30(1985)
3)「パラニトロクロルベンゼン(PNCB)中毒について著名なメトヘモグロビン血症を呈した症例とその対策について」石蔵文信ほか、海上医学(昭和60年)