化学テロにおける病院前活動
化学テロ等発生時の多数傷病者対応(病院前)活動に関する提言の目的 前文
目次
V.コミュニケーション(被災者への情報提供・除染方法の伝達・行動誘導)
I. テロに使用される化学剤の特性
・ 経気道吸収の防護が重要である。
・ 現場対応では物質の検知に関して、神経剤か否かの判別を第一優先に行うことが、効率的な活動である。
1. 化学剤の分類
表 1 に作用機序による化学剤の一般的な分類を示す 1)2)。
表 1 化学剤の分類
分類 | 作用機序 | 例 |
神経剤 | 神経伝達を阻害 | サリン、ソマン、タブン、VX、ノビチョク |
びらん剤 | 皮膚、呼吸器、粘膜を直接障害 | マスタード、ルイサイト |
血液剤 (シアン剤) | 細胞内ミトコンドリアの酸素利 用を阻害 | シアン化水素、塩化シアン |
窒息剤 | 肺胞を障害 | ホスゲン、ジホスゲン |
無能力化剤 | 中枢神経、末梢神経に作用して 一時的に行動不能化 | 3-キヌクリジルベンザレート (BZ)、オピオイド(フェンタニル) |
催涙剤 | 粘膜を刺激 | 2-クロロベンジリデンマロノニトリル (CS)、クロロアセトフェノン (CN)、カプサイシン |
2. 物質の化学特性
揮発性に関する物質の特性の違いによって、拡散や人体への影響の仕方が異なる(表 2)。
表 2 物質の化学特性
物質特性 | 拡散の程度 | 多数傷病者発生 | 人体への影響 | 例 |
---|---|---|---|---|
揮発性 | 拡散しやすい | 高リスク | 付着後時間経過により消失しやすい | サリン、塩化シアン |
不揮発性 | 拡散しにくい | 低リスク | 消失せずに効果を発揮し続ける傾向 | びらん剤、VX |
3. 拡散の方法
剤を直接人体に塗布するなど、暗殺などの少人数殺傷に適するものとして、不揮発性の物 質がある。反対に、化学剤を広範囲に拡散させることができれば、多数傷病者の発生という 効果が発揮される。化学剤を拡散させるにはさまざまな方法がある。揮発性物質は剤を放置 するだけで効果を発揮するが、不揮発性物質の場合にはエアロゾル化する機器を用いること で可能になる。建物の屋外など開放系で剤が散布される場合(松本サリン事件など)と屋内 などの密閉系で散布される場合とでは拡散状況は変化する 3)。一概に屋外といっても市街地 など建造物の位置や気温、湿度、風、地理的条件や散布する物質の種類によって拡散状況と 健康被害の発生は複雑に変化する。シミュレーションによってこの拡散状況を解析する方法 が研究され、対応策の検討に利用することも示されている 4)5)。
- 揮発性物質:剤を放置するだけで拡散効果を発揮する
- 不揮発性物質:エアロゾル化する機器を用いることで拡散可能になる
* 化学剤を散布した場合には、種々の条件によって拡散状況と人体への影響は複雑に変化する。
4. 特殊な状況
爆発物による化学剤散布が行われたケースは過去あまりないが、国家間戦争としてミサイ ル弾頭に用いられることがある 1)6)。また、特殊な化学剤使用方法として、毒性の低い 2 種 類以上の前駆体を混合することで毒性の高い化学物質を発生させるバイナリー化学剤があり 1)、ミサイル弾頭に注入する化学剤として用いられる 1)。神経剤と血液剤など異なる性質の 有毒化学物質を 2 種類以上散布することや、化学剤と放射性物質を混入することは、理論的 にはありうるが、事例報告はない。このような 2 種類混合は、相互作用の面で効果・出現す る症状、実効性の可能性などは不明な点が多い。
5. 吸収について
人体への有害性は経気道吸収と経皮的吸収によって生じる。有毒物質を吸い込むことによ る経気道的吸収は効果が早く、症状も強く表れる。経皮的吸収の場合、比較的吸収に時間を 要するものが多い。びらん剤は吸収による全身症状出現でなく、皮膚に対する直接的効果と 経気道吸入による呼吸器障害が問題となる。皮膚障害はその効果発現には数時間ないし半日 を要する。VX やノビチョクは沸点が高く揮発性が低いので、経気道的吸収による障害は生 じ難い。一方で、液滴として少量皮膚に付着するだけで致死的となりうる 1)6)。揮発性物質 の場合には気道からの吸入を防ぐことで、一定時間は人体に対する有害性を防御することが できる 1)2)(「VII.防護と検知」の「米国での科学的検討と実証実験」を参照)。
6. テロとして使用される化学剤の特性
一般に化学剤の毒性の指標は、LCt50(50%致死曝露量)と Ct(曝露量)とを用いる 1)7)。
- LCt50:経気道吸収される剤の毒性を示す方法として有用であり、防護具を付けない集団 が一定の分時換気量での呼吸および一定の曝露時間状況下で、蒸気またはエアロゾルを 吸入曝露した際に半数が死亡する化学剤の曝露量を指す。
- Ct:蒸気・エアロゾル状の化学剤濃度(mg/m3 )と曝露時間(分)の積で求められる。
LCt50 は化学剤の特性として固有のものであり、数値が低い剤の危険性が高い。それに対 して Ct は数値が大きい場合に危険性が高く、濃度や曝露時間は、現場状況によって変化する。つまり、空間の広さや密閉性と避難行動の可否などに影響される。よって、Ct に着目した場合、(1)無色、無臭など、散布されていることに被災者が気付き難いこと、(2)剤が広い空間に短時間で拡散しやすいこと、(3)すぐに症状が出現すること、(4)被災者に生命的危機が生じること、などの条件をもつ化学剤が散布された場合に危険性が高いと言える。
よって、表 3 のように危険性を分析することができる。
上述したように、毒性比較にかかわる項目すべてにおいて神経剤、特に揮発性のサリンなどの危険性が問題である。よって、テロ行為として最も利用される蓋然性が高く、最も安全
対策が難しいものとして、神経剤に対する対処法を前提とした体制を構築すること、特に経
気道吸収対策を講じることが重要である。
討がなされず、画一的な対応策が構築されてきた。しかし、各々の化学剤は物質特性が
大きく異なり、それを考慮した防御態勢を構築する必要がある。救護の観点で問題にな
る大量殺傷効果が高い揮発性物質を想定すると、単位時間あたりの吸収効果の観点で
は、経気道吸収の防御に重点をおいた対策を見直す必要がある。
II.事案の想起
・ 消防や警察により、通常の現場対応から開始されることを前提とすべきである。
・ 「通常とは異なる状況や違和感」「急性発症の多数傷病者が発生」「意識障害、縮瞳、 嘔吐など中毒症状」などは総合的に化学テロ・災害を疑う。
・ 通常の事案として現場活動を開始した後に、化学テロ・災害であることが判明した場合 の対応策を十分に事前検討する必要がある。
・ 機械的検知法は万能ではない。
・ 身体症状から散布物質の特定が可能な場合がある。
事件発生の初期段階で化学テロ・災害事案であることを判断することは容易ではない。近年、海外では事件発生の蓋然性が高い場所に事前に遠隔検知装置などを配備して、剤のサーベイランスを実施し、散布を早期に感知し判別する試みがなされている 8)。しかし、散布さ れた剤の種類や濃度によっては特定困難である場合も想定されるので、これだけに依存する ことは望ましくない 1)。化学剤が散布されたことを疑う要素として「通常とは異なる状況や 違和感」「急性発症の多数傷病者が発生」「意識障害、縮瞳、嘔吐など中毒症状」などが挙 げられる 9)。ただし、爆発により散布する事態では外傷を伴った事案として発生するので、 外傷の対処が主体になり、化学剤の使用を想起することは困難になる場合も想定される。
あらゆる現場において、異常な要救助者の身体所見など現場状況から、原因物質の種類 や濃度に関してその存在を判別するように努める必要がある。例えば、被災者の多くが縮瞳 (患者本人は暗くて視界が悪いと感じる)や涙、鼻汁など分泌亢進の症状をきたした場合に は、神経剤に曝露された可能性を疑うことができる。このような身体所見等から原因物質を 推定するにあたっては、事前学習の観点も含め、CHEMM-IST10)等の化学剤推定補助ツー ルを活用するとよい(CHEMM-IST では、意識状態・瞳孔所見・粘膜症状などの 17 項目の 症状・徴候から、7 種類の化学剤の推定が可能である)。機械的検知は時に有用であるが、 救助活動を開始するにあたって、先行する必須の行為ではない。現場先着して初動を開始す る救助者すべてに検知器を配備することは現実的ではない。それを理由に、救助活動開始が 遅延することは避ける必要がある。機械的検知を早期に開始することは重要であるが、救助活動の開始は検知行為と併行して実施されるべきものである。なお、機械的検知は万能では なく、散布された剤の特定・濃度に関して、時間を要したり、偽陽性、偽陰性など誤判定を 生じたりするなどの問題があるため、検知の結果だけに依存した対応戦略には注意が必要である 1)。
さらに、機械的な検知方法以外にも傷病者の身体所見などから化学剤の存在や種類を推定できる要素があり、それらから化学剤を推定するツールも存在することを周知する必要がある。救助活動にあたる消防士、救助隊員にも、要救助者の特徴的な身体所見に関しては、観察する習慣と最低限の知識を教育すべきである。
III.避難・救助
・ より遠方の場所を指定して自力移動できる被災者を避難誘導する。
・ 遠方への避難が基本だが、困難な場合は窓やドアを閉鎖して有毒物質の流入を避ける。
・ 生命徴候のある要救助者が存在する場合には、直ちに救助を実施すべきである。
・ 迅速な救助活動を開始するために必要時には、全面空気呼吸器マスクと防火衣装着での救助を選択する必要がある。
・ 強引に引きずりだす snatch rescue の選択を考慮する。
1. 拡声器等を用いて避難を指示する
被災者を一刻も早く汚染現場(ホットゾーン)から避難させることを最優先で実施する。 化学剤の拡散を心配するよりも、被災者を早期に遠ざけることが何より重要である。高濃度 の現場にとどまることが傷病者の状態を悪化させる最大の要素である 11)。はじめに曝露された場所にいたとしても、早期に現場を離脱すれば身体症候の出現を回避できる可能性があり、結果的に傷病者数を減らすことにもつながる。
そのために、現場到着した救助者や現場となった施設の事業者は事態発生を疑った時点 で、まず拡声器等を用いて、自力で動ける人に行動を促すことが求められる 12)。自力移動で きる人々には、方角や場所など、どこへ避難すべきかを明確に示す 13)ことで、自力避難が可能となり、結果的に現場の負担が軽減できる。ただし、原因物質の比重や位置、大きさや濃度、風向風速、場所の高低など不確定な要素があり 1)、拡散しやすい方向を即時的に判断することは困難である。例えば原因物質の比重は即座にはわからないことが多いので、避難方向として、高所なのか低所なのかを比重によって変更することにこだわると時間の浪費になる。よって屋内や地下が発生場所であれば、外の開放された場所を選び、より遠方へ避難さ せることを優先する 11)12)。避難が困難な場合にはドア・窓を閉め隔絶された場所を確保する 選択もある 14)。
2. 救助
自力避難が不能な者に対しては、適切な個人防護具(personal protective equipment; PPE)装備と訓練を受けた消防隊員がホットゾーンで救助活動を行う。この際に、NBC 専用の PPE がない場合でも、それら資機材の到着を待つと時間が経過してしまう。よって、 全面空気呼吸器マスクと防火衣装着での救助(「VII.防護と検知」の項参照)を考慮すべきである13) 15)。消防隊員は避難支援とともに、救助手法として、丁寧な複数救助者による愛 護的な救助にとらわれず、強引に引きずり出す snatch rescue の選択を考慮することも有効 である 15)。この方法は、要救助者の脇に 1 人または 2 人の救助者の腕を入れて下肢を引き ずり出す方法である。
★防火衣や手袋に化学物質が付着することは前提なので、短時間の活動(生存者がいる場合 には 30 分以内)に努め、終了次第、マスク、防火衣、手袋の装脱を行い、消防放水による除 染を実施する 15)(「VII.防護と検知」の項参照)。
3. 迅速に優先度判断
救助の優先度に関しては、世界的に明確な基準が示されているわけではない。重要なことは、生存の可能性がある傷病者を救命することと、急速に病態が悪化する可能性がある傷病者に早期に対応することである。高濃度の化学剤に曝露された直後に、即死または心肺停止 に陥る傷病者がいる。この場合、蘇生行為ができる場所への移動の後に蘇生を開始すること は時間を要し、救命の可能性は低くならざるを得ない。したがって、多数傷病者を想定した 場合には、以下のことに留意する。
- 自力避難できない傷病者の中から、生存徴候が明らかな者の救助を見つける 16)17)。
- 呼吸と意識を確認する:苦しそうな呼吸やなんらかの意識障害を認める場合には、優先すべき症状の出現である 16)。
- 自力で動けない人、なんらかの症状を有するが歩ける人を優先して対応する 18)。
- 子供と高齢者、妊婦、基礎疾患を有する人は優先される必要がある 17)18)19)が、持病に関して詳細を聴取することは困難が予想される。
- 非汚染域への移動が困難でも、高汚染域から低汚染域への移動を優先する 17)18)。
- 外傷により活動性出血を認める場合にはターニケットなどによる止血を考慮する19)。
汚染物質があるエリアの活動に関して、完全な防護体制と装備が理想であるが、完璧を追求すると生命的危機に瀕した傷病者を救う機会を減らすことにもつながりかねない。通常の消防装備でも限られた時間内の活動が可能であることが示されているので、実行すべきである。
また、短時間での救出のためには、一刻も早い救出に専念することを強調する必要がある。
IV.多様な要救助者対応
・ 多様な要配慮者のために、資機材、救助体制や訓練など事前準備が必要である。
・ 同一言語や家族など、集団化させることで活動が円滑化できる可能性がある。
・ 特別な支援や必要な資機材準備のために救助活動を遅らせてはならない。
・ 被災者を自立して行動できるグループと支援が必要なグループ(さらに、化学剤によ って無動化された人と、日常的な要支援者に分けられる)に分けて支援計画を立てる 必要がある。
1. 要配慮者への支援
外国人、身体障がい者、高齢者、子どもなど、特に支援を要する人への対応策を事前に策 定しておくことが重要である。特に、わが国のように高齢化が進む社会において、要救助者 が救助者の指示に基づいて迅速に対応することができない集団が一定規模以上存在すること を前提にして救助体制を構築しなくてはならない。身体の自由度が損なわれている被災者に 対して、さまざまな支援資機材を準備し、活用しなければならないこともある 13)15)。
多国語に対応する
外国人に対して、通訳の準備を可能な限り行う。英語以外にも遭遇する頻度が高い言語での説明や注意書きを用意する。同一言語の集団を形成して行動を促すことで、被災者は安 心して行動可能になる。事前に各国語での録音や指示を書いた表示を用意すると利便性が高い。
被災者の補助器具は可能な限り保持させる
松葉杖、眼鏡、補聴器など除染可能な補助器具は取り上げないようにする。取り上げるこ とで移動や除染を自ら実施する妨げとなり、結果的に時間を費やすことになる。
高齢者へ配慮する
高齢者は視力、聴力の低下がある。伝達事項の文字や音声を大きく、冬季などには偶発低 体温症の対策が必要である。
家族は一緒に行動させる
家族は一緒に、除染やその他の行動をとらせる。特に小児は親と一緒に避難、除染すべきで、両親に子どもの除染をさせると有用である。
2. 資機材準備を待って救助、除染活動開始を遅らせない
自力で避難、脱衣することができない被災者に対して、移動のための資機材到着を待つことにより除染が遅れることは避けるべきである。
3. 自力移動できない被災者をグループ化して対応する
化学剤に曝露されたために動けない人と、身体障がい者は、その後の医療介入が大きく異なるので、分けて対応する方がよい(後述)。
4. 救助時の搬送訓練等を日常的に実施する
個人防護具(PPE)の着脱訓練と同様に、自力移動できない人の搬送等の対応訓練は日常的に実施しておくことが望まれる。
【要配慮者を意識した活動のためのグループ分けと具体的支援】
効率的な援助と実行のために患者のグループ分けをする 13)。
(1) 自力で移動可能なグループ:自力で除染できる被災者
(2) 救助者による支援・介入が必要なグループ
(2-1) 曝露された物質の影響で無動化され、自力での除染が不可能な被災者。
(2-2) 曝露された物質の影響はあまりないが、救助者の支援が必要な被災者。
子ども・高齢者・身体障がい者・外国人(言語)・妊婦・認知症の人などの要配慮者は(2-2)に該当する。
【要支援の具体的対応】
具体的な要支援対応として、自力移動不可、または言語理解が不十分などの理由で音声誘導だけでは行動できない被災者に対して支援を行う必要がある。
動けない人に対して使用する器具例:
ストレッチャー、車いす、プラスチック椅子、除染用ローラーなど
⇒救助者が付き添って誘導や移動、除染などの行動をする
V.コミュニケーション(被災者への情報提供・除染方法の伝達・行動誘導)
・ 行動手順を明瞭かつ丁寧に示すための工夫(拡声器、短い表現、画像、実演など) が有用である。
適切な情報提供の有無は被災者の行動に大きく影響する。何も情報提供しないで行動を促 すことは困難である。一方で、事件の概要などの不要な情報提供は不安と憶測をもたらすだ けで有益性がなく、適切な行動の妨げになる 13) 20)。現場対応する者は、被災者に対して以下に示すような具体的情報提供をすることで、群衆を適正な行動へ誘導できる可能性が高まる。そのためには事前に定型化した文言化と手順の作製が有用である。行動手順を明瞭かつ丁寧に示すことで、全体の活動の速度が上がり円滑化する。
【提供すべき情報】
・健康・生命に関する情報に絞る
「有害な物質があるので今から対応をお伝えします。指示に従ってください」など。
・除染をすることの意義
「上着を脱いでその表面に触らない様にするだけで大丈夫です」 「おしぼりなどで頭や顔を拭き取ると効果があります」など。
・除染をしなかった場合の二次被害などのデメリット(自分も家族も)
「服を着たままだと具合が悪くなる可能性があります」 「そのまま帰宅するとご家族にも影響が出る可能性があります」など。
【伝えるための方法】
また、より効率的で迅速な行動(避難、除染など)をとるために、日常的な啓発活動を国家的、行政的に実施しておくことが望まれるが、そのためには将来的検討と、コンセンサスが必要である。
VI.除染
・ 除染は 1脱衣⇒2即時除染⇒3放水除染⇒4専門除染の順で進める。
・ 一刻も早く脱衣すること(10 分以内)が重要である 13)。
・ (1)脱衣と(2)即時除染までで、99%の汚染が除去できるので、多くの場合は除染終了と考えてよい 13)。
・ 一刻も早く除染を実施すべきである。
・ 専用の資機材準備が未完であることを理由に、除染の実施が遅れてはいけない。
・ やれることから何でもやる=資機材準備のために除染の開始が遅れてはならない
・ 時間の概念をもつことが重要である。
・ 除染後の汚水処理は可能な範囲で考慮するが、汚水回収体制構築のために人命救助が 遅延することは許容すべきでない。
1. 除染とは
除染とは有害性のある物質を除去すること、または無害化することを指す。一般的には有害物質に汚染された衣類を脱ぐことや、体表に付着した物質を拭き取りや水洗いなどの方法
で物理的に除去することを指す。近年は有毒物質を中和など、化学的に変化させることで無
害化する方法もある。
2. 除染に関するパラダイムシフト
従来の除染手法 9)21)には、以下の3つの課題があった。第一は乾的除染と水除染のいずれ かの判断を、現場で初期対応する消防隊員に求めることは容易ではない。多くの研修会にお いて消防隊員に訓練を行ってきたが、習得は容易でなく、記憶の維持も困難であった。第二 は乾的除染に脱衣が包含されているため、最も簡便かつ重要な脱衣の実施が遅れる傾向があった。第三は特別な専門装備の使用を前提とする水除染の準備が完了するまで、一切の除染 行為が開始されない運用であるために、傷病者の救助開始も遅れた。揮発性の化学剤は時間 経過によって皮膚汚染部の除染効果が急速に失われることが判明しており、皮膚に付着した サリンでは 60 分経過すると、もはや除去効果はない 22)。よって、一刻も早く脱衣を含む除 染を開始するとともに、乾的除染か水除染かという従来の二者択一的判断から、段階的にや れることから開始してステップアップする線形アルゴリズムの概念へ転換が必要である。
【線形アルゴリズムに基づく除染】
行動を単純化して、資機材の有無を問わず迅速に行動を開始するためには、脱衣を含めて、線形アルゴリズムに基づいて、行動を促し、順次高レベルな除染を追加する方法が有用であると考えられる。
また、厚生労働省の委託を受けた日本中毒情報センターの「NBC災害・テロ対策研 修」や MCLS-CBRNE などの研修を通して、乾的除染も水除染と同等の有用性があることを教育し訓練を行ってきた。多くのケースで大型の装備を必要としない乾的除染の選 択を強調した経緯がある。しかし、水除染と乾的除染のどちらを選択すべきかに関する選別(トリアージ)が必要であることと、両方法が並列しているために、結局、水除染 体制が構築されてからでないと、両者の選別も除染行為も開始されず、時間的改善がみられなかった。
今回の提案において重要なことは、選別することなく「待たずに、やれることからやる」という基本コンセプトに基づいたことと、放水除染(Gross decontamination)に示すような、一般消防放水機能を活用した除染を組み込んだ点である。
3. 各論
3.1. 脱衣(Disrobing)
曝露後、10 分以内を目指して、可能な限り早く脱衣させる。
目的:
衣類の直接浸透による経皮吸収の低減と、衣類に付着した揮発物の吸入を低減することが目 的である。揮発性物質はかなり長時間衣類から揮発し続けることが判明しているので、汚染 された衣類を脱がない限り、長時間呼吸として有毒物質を吸い続けることになる 23)24)。15 分以内の脱衣を推奨する報告もあるが 16)、脱衣の有効性は、時間経過とともに低下すること が報告されている 25)ことから、10 分以内を推奨する海外報告が出されている 13)。本邦における消防機関の現場到着の早さを鑑みても、10 分以内を目指して脱衣を促すように時間概 念を設定することが可能であると考える。
脱衣の重要性は、非常に単純で迅速に行える行動であり、90%の除染が可能であるという有用性にある 13)。
方法:
脱衣では顔に付かない、吸い込まないなど、上手に実施する必要がある。
・ ボタンやジッパータイプの着衣は開けて、そのまま袖を抜いて脱ぐ。 ・ セーターなどの衣類は浮かせるように持ち上げて、裏返さずに脱ぐ。
・ 顔に触れないように脱ぐ。
・ 閉眼・息を止めて、目や気道からの汚染を防止する。
・ 可能なら衣類を切って、頭部を通さずに脱衣することが勧められる。
注意:
プライバシーの保護が必要である。特に女性は心理的ブレーキにより脱衣が遅れることが 懸念される。
・ 男女を分ける。
・ 衝立など遮蔽物を準備 ・・・ ブルーシート、既存の建物、専用車両なども考慮。
・ 一時的に着るリネンや衣類を用意。
・ 脱衣なくシャワーなどの水除染を実施しない!・・・有害性が大きく、効果が低い 13)。
・ 大きなビニール袋を用意し、脱衣後の衣類などを保管 ・・・有毒物質の拡散防止と私物管理。
事前準備:
平時からの市民への啓発は、有事の行動を変える可能性がある。発災後に被災者に対し
て、わかりやすい指示ができるように準備する。
・ 平時から脱衣の重要性を啓発
→ どの程度の周知をするのか、方法などについては検討を要する。
・ アプリ・ビデオ・パネルなど図示や現場での実演などで被災者へわかりやすく伝える
→ 例)ボタン外す、顔に触れない、裏返さない、など。
3.2. 即時除染(Improvised decontamination)
その場で使えるものをなんでも活用して可及的速やかに実施する方法である。揮発性の物質では時間の経過に伴って皮膚に付着した物質の除去効果が急速に失われるので 22)、使える もので、拭き取ったり、水ですすいだり流したりする。水を使う方法を水除染と呼び、水を 使わない方法を乾的除染と呼称するが、曝露状況によって適する方法で選別することにこだ わらずにどちらでも実施しやすい方から開始すべきである。汚染物は一般的に水を使用した 方が除去しやすい。危険性の回避の観点から、除染行為は露出部(頭部・手)を中心に頭から足方向へ進める 13)16)。
乾的除染
最も基本的な方法であり、いわゆる「拭き取り」である。
ティッシュペーパー、ペーパータオル、布、おしぼり、粉、草などなんでも使えるものを使う。液体や粒子の除去がしやすい。拭き取りの方法による差異はあまりない。この方法では除去しにくいものがあるが、禁じられるものもないと考えてよい。水除染に比して寒冷地でも実施しやすい利点がある。
※ 特に適している剤:非腐食性液体*、水に反応する物質**、蒸気やガス * :びらん剤、ギ酸、フッ化水素など腐食性物質以外 。
** :ナトリウム、マグネシウム、アルミニウム、セシウムなどの金属。
水除染
’rinse-wipe-rinse’ method 水ですすいでこすり洗いして、またすすぐ方法である。水以外にスポンジやタオルでこすり洗いできると有用性が増す。水に反応するごく稀な化学物質以外はすべてに有用性があり、汚染物を除去しやすい。
●プールのシャワー、スプリンクラー、ボトルの水などで実施可能。
※ 特に適している剤 :微粒子、腐食性(びらん剤、ギ酸、フッ化水素など)液体
➡早期の実施が重症化を阻止する
重要!
脱衣の項で示したように即時除染まで実施すれば、汚染物質は 99%除去され、残留は 1% だけである 13)。ここまでの即時行為がいかに重要であるかを示すものである。しかし、これ 以降の除染方法も有用性があり、実施を否定するものではないので、以下の要素に照らして 状況が許すならば必要に応じて実施を判断する 17)18)。
*反応性皮膚除染ローション(Reactive Skin Decontamination Lotion; RSDL)について
化学剤が皮膚に付着した場合に、少量の薬液を塗布することで、化学剤を中和してその毒 性を消失させる除染ローションとして RSDL がある。カナダで開発された後、米国、カナ ダ、ヨーロッパ、オーストラリアなど各国・地域でクラスIIの医療機器として承認され、軍 を中心に広く世界中で普及しているが、本邦では未承認である。サリン、ソマン、VX など の神経剤、びらん剤のマスタード、T-2 毒素(カビ毒)、有機リン系農薬(欧州のみ適応あ り)に対する有効性が確認されている。スポンジに液体を滲み込ませパックに包装したもの で、必要時に迅速に使用可能なキットとなっている。パックから取り出して薬液が滲み込ん だスポンジを腕、首、顔などの皮膚へ直接塗布することで化学剤を無害化できる。薬液を塗 布した後に水を入手することができれば洗い流すことで容易に洗い流せる 26)。事前に必要数を購入して準備しておく必要があるので、国際会議での要人対応用に有用性が高いが、不特定多数の傷病者用に保有することは不効率な面がある。しかし、ファーストレスポンダーである消防官や警察官用に保有することで、前述したように迅速な救助活動を
展開する際に非常に有効性を発揮する可能性がある。
3.3. 放水除染(Gross decontamination)
消防機関が除染専用資材を準備、使用する前に、多数傷病者に対して通常消防装備を用い て構成した除染法である。消防の放水機能を用いて水除染を実施する。後述するような専門 の機材の到着を待つことなく救助を開始する必要性も想定される。その際に傷病者や救助者 の除染手段として大いに活用すべき手法である。米国、英国など海外では標準的手法として マニュアル化されている 16)17)18)。
Ladder-Pipe System (図 1)
・ 2台の消防車とはしご車で3方向から消防放水するトンネルを構成する。
・ 脱衣を済ませた被害者は顔を上に向け、両手を挙げて、両足を広げ、皮膚をこすりながら、90 度または 360 度回転してトンネルを通り抜ける。
・ しかし、全身に水をかけるので寒冷状況下では実施すべきでない。
水圧
50~60psi(科学的根拠はない)程度に調整して強すぎないようにする。
水温
低体温症対策として 25°C以上が求められるが、冷水しかなければ待たずに実施すべきである。
洗浄時間
自力で動ける成人は 1 人 90 秒程度で実施する。適正な洗浄時間に関してはさまざまな報 告があり、定まった推奨時間はない。しかし、多数傷病者に対応する場合には全体として の有効性を発揮するために 30 秒程度を推奨する考えを示した報告がある 27)。
石鹸・洗剤の使用
遅れなければ使用を考慮する:特に油性汚染に有用性が高いが、そのために実施が遅れてはいけない。
布類で液体成分を吸収させて拭き取ること 13)。
・ 水除染と組み合わせると有効性が高くなる。
・ きれいなタオルですぐに拭き取ることで、残存汚染の除去および体温喪失対策になる16)。
・ 目、鼻、口周辺の拭き取りが重要である 17)。
・ 使用したタオルは汚染物として扱う。
・ 除染の一過程なので、ウォームゾーン内として扱う。
・ 積極的拭き取り(active drying)と併用するなら、Ladder-Pipe System は 15 秒程度の短時間でも効果的である。
3.4. 専門除染(Technical decontamination)
化学剤対応の専門部隊による専門機材(専用の個人防護具(PPE)や除染機材など)を用い た除染である。救助者、機材、施設の二次汚染が可能な限り生じないレベルまで汚染を取り 除くことを目的にしている。1脱衣、2即時除染、3放水除染に引き続いて実施する。
・ 生命危機が迫っている傷病者に実施することは適さない。
・ PPEを装着したスタッフの指示に従って大型機材で行うので、確実性がある一方で、準備に手間取り、正確な手順で実施しないと効果が減弱する点に注意が必要である。
・ 石鹸や洗浄剤準備を含め、設備準備や汚水処理のために除染の実施を「待たせる」あるいは「遅れさせる」ことは、除染行為自体の有用性を損なうことなので、避ける必要があるということを強調する。
・ 除染行為の最中に心肺停止などの生命危機に至ることがあるので、注意すべきである。
びらん剤に関して
・ 付着した直後に症状発現がなく気づきにくい。
・ そのために時間が経過することが想定される。
・ 多くのびらん剤は粘稠性が高い液滴の特性があることと、明確に有効な拮抗薬が存在しないことも鑑みて、できる限り皮膚浸透性を軽減する観点から実施すべきである 18)。
・ 大量あるいは油性の曝露の際には、石鹸や洗浄剤を用いるとよい 18)。
VII.防護と検知
・ レベル B の PPE などの専用装備がない先着隊の場合、全面空気呼吸器マスクと通常の防火衣の装着で活動を開始する。
・ 明らかに生存している被災者がいる現場、または生存者がいる可能性を探索すべき現場では、迅速に活動を開始する必要があるので、NBC 専用 PPE がない場合には、全面空気呼吸器マスクと防火衣を装着して活動を開始する。
・ 通常装備で活動を開始した場合には、活動時間の制限に関して時間測定し、救助者の 身体所見に配慮する。
・ NBC専用PPEが到着した場合には、即座に切り替える。
・ 検知活動が救助活動より優先することはない。
・ レベル A の PPE はすべての救助活動に必ずしも適しているとは言えない。
1. 個人防護具(PPE)について
化学テロに対応する個人防護具(Personal Protective Equipment;PPE)についてレベル A から D までの分類がある 1)9)。
化学テロに対応する PPE の比較
??備種類,呼吸保 | ??具,安全性,可動性, | ??着 | |
レベルA,スーツ内で全面空気呼吸器マスクを | ??着,非常に高い,悪い,困難 | ||
レベルB,全面呼吸器付マスクを外に | ??着,高い,比 | ??的 | ??好,中等 |
レベルC,吸着缶付き防毒マスク,限定,比 | ??的 | ??好,中等 | |
レベルD,N95またはサージカルマスク,低い, | ??好,容易 |
レベル A
化学剤の浸透性を遮断した特殊素材のスーツで、隙間なく全身を覆うことでほとんどの化 学物質から身を守ることができる。外界から遮断されたスーツの中で全面空気呼吸器マスク を装着するので、呼気ガスによってスーツ内が陽圧になってより安全性が高まる。しかし、 可動性が悪い素材を使用しており、重量が重く、グローブは非常に作業がしにくい。さら に、装備の脱着には手間がかかり装着する空気ボンベの使用可能時間に制約されて実質的活 動時間は 20 分程度と短くなる。暑熱環境下では内部環境は悪く、休憩と水分補給が必要 で、連続装着は困難である。
レベル B
レベル A の PPE と同様に化学剤の浸透性を遮断した特殊素材のスーツで全身を覆うが、顔面を全面空気呼吸器マスクで覆う。マスクと空気ボンベは PPE スーツの外に装着する。 レベル A の PPE に比して活動性が高く、脱着も早い。
レベル C
化学剤に対して防御性のある素材のスーツを装着するが、呼吸に関しては空気ボンベを使用することはなく、吸収缶を通して外界の空気を吸い込む防毒マスクを装着する。吸収缶が対応できる種類の化学剤を対象にする必要がある。比較的薄く活動しやすいスーツであるが、グローブやブーツとの境界面はテープによる目張りが必要である。
レベル D
職種ごとに日常の標準的な防御性の被服を装着し、ゴーグルなどによる目の保護と N95 マスクまたはサージカルマスクによる粒子吸い込みに対する防御を行う。揮発性化学剤の気道防御性はない。
2. PPE のレベルについて
・ ホットゾーンとなる汚染地域へ進入する際には原則としてレベルB以上のPPEを装着 して活動を開始する。
・ レベルAのPPEのPPEは脱着や除染を含めて空気ボンベの使用可能時間に制限されるうえ に、緊急使用と活動の機敏性の面で劣るので、救助活動には不向きである。
・ レベルAのPPEの防護能力は、適正使用下でのレベルBのPPEと差異がない。そのため、レベル A の PPE は化学剤の曝露濃度が高いことが想定される剤の検知や回収を目的に限って使用すべきである。
・ 発災初期では化学テロ・災害発生を把握することが必ずしも容易ではない。そのため、初期対応においてはNBC専用 PPEだけでなく、通常装備のレベルの PPE の使用を許容することで、活動初期段階において化学テロであることが不明の現場(多くの現場はそうであると考えられる)での活動継続が可能になる。
先遣隊におけるPPEについて
・ 先着隊が即座にレベル B の PPE で活動できるのならば、その装着が推奨される。
・ しかし、迅速に専用装備による救助活動が困難であるならば、一刻も早い避難誘導と救助のためには全面空気呼吸器マスクと通常の防火衣装着での活動開始が必要である。防火衣は手袋などのつなぎ目を、ガムテープなどで目張りすることを勧める 13)15)。
・ 即座に侵入し救助活動すべき状況として以下がある。
(1)明らかに生存している被災者がいる現場
(2)生存者がいる可能性を探索すべき現場
・ テロに使用される化学剤はサリンなどの神経剤の蓋然性が高い。サリン現場に生存者がいる状況下では 30 分間活動が可能であることが示されている 15)。
・ 生存者がいない現場であった場合には、3 分以内に現場を離脱すべきである 15)。
・ 救助隊員になんらかの症状が出現した場合には、すぐに離脱すべきである。
⇒ 専用装備以外での救助活動後には迅速に脱衣し、消防放水等を用いて除染を行う。
・ 一緒に救助した傷病者に対しても迅速に除染する。
・ 通常装備としてレベル B の PPE を保有している場合は、初期救助活動に使用すべきである。
・ NBC専用PPEが到着した場合には即座に切り替える必要がある。
3. 検知について
検知活動は、救助活動と併行して実施する行為であり、検知結果の判明を救助活動の開始条件とすることは、迅速な救助の妨げになりうる。前述の防護装備による救助活動は、検知結果によらず開始できるものである。
検知は「神経剤か否かの判定」を優先し、検知器で剤が特定され、対応している剤であることが判明した場合には、レベル C の PPE へ積極的に切り替えて活動することで、機動性 を高めることができる。
VIII.ゾーニング
・ 完全なゾーニングの優先度は低く、最低限コールドゾーンの設置に注力すべきである。
・ 建物の構造や風向きの変化などを鑑みた、距離に関する基準設定は不可能である。
・ 屋外では希釈が進み、致死的濃度に至りにくいことを理解する必要がある。
自力移動が可能な被災者は、現場活動する消防隊員や警察官の指示を受ける前に自分の意 思で行動している。また、前述したように先着した部隊や施設管理者が被災者に対して、よ り遠方への避難を指示・誘導する。よって、汚染されている被災者が存在する域をウォーム ゾーンと定義した場合には、ウォームゾーンは限りなく広範囲となり、囲い込むことは現実 性がない。結果的に、ゾーンの境界はファジーであることを許容する必要が生じる。従来の ように初期活動として完成度の高い囲い込みのゾーニングを目指すことは、避難や脱衣など の除染のように、より優先して行うべき活動を遅延させうる。完全なゾーニングを目標とせ ず、最低限コールドゾーンの設定に注力することで活動が迅速化する。ゾーニングに過剰な リソースを振り向けることは慎むべきである(図 7 参照)。
距離をどのように設定するのか基準は明確化しにくい 29)。化学物質は風の力で拡散するの で、風下では距離が長くなる。また、有毒物質が自然に揮発する散布法ではなく、ファン機 能付きの機器で積極的に散布した場合には広範囲の拡散が生じる。安全域を長距離に設定す れば救助者の安全は確保されるが、反対に動線が長くなり、救助活動に大きな支障をきたす ことに留意すべきである。
従来、軍事教書に示されたゾーニングの距離を参考に一般市街におけるゾーニングが例示されてきた。しかし、軍事教書で想定されるシナリオは、世界大戦の経験に基づく野戦を前提とした考え方であり、市街での化学災害やテロ行為にそのまま適応することは適切ではない。戦争で使用される条件との違いを考慮して現実的なゾーニングを実施する必要がある。
IX.現場医療
・ 自動注射器を活用して早期に傷病者に対して解毒剤を投与する必要がある。
・ 化学テロ・災害に対して安易に災害派遣医療チーム(Disaster Medical Assistance Team; DMAT)の出動要請をすることは慎むべきである。
・ 海外のように、防衛当局の医療部門(自衛隊衛生部隊)の派遣を求める必要がある。
・ 危険地域で救助活動する専門部隊の隊員が解毒剤を早期に使用できる体制を検討するべ きである。
1. 現場で求められる救護技能
・ 医療従事者に限らず、以下のような神経剤等の特徴的な徴候の把握に努めることで早期 に原因物質を推定できる可能性がある。
縮瞳*(被災者は暗く、視界が狭いことを自覚)、眼痛*、分泌亢進*(流涎、流涙、鼻汁)、線維束攣縮、呼吸困難、徐脈、低血圧
*特に神経剤では縮瞳や分泌亢進、眼痛などが出現しやすい。
・ 一方で、化学剤の濃度が高い区域内で被災者の徴候を厳密に確認することは困難である。全面空気呼吸器マスクを装着した救助者にとって被災者徴候を確認することは容易 ではないためである。自力で避難した被災者にも症状が出現するので、確認しやすい人 の徴候を活用することを考慮する。
・ 重篤な外傷に対する止血は優先されるため、避難・救助段階でタ-ニケットによる止血 など救命処置を実施する必要がある。
2. 曝露後早期の解毒剤投与の必要性
急性に症状が出現する神経剤は、曝露量と曝露経路によって症状出現の仕方が異なるとさ れ、症状出現が速いほど重症であるとされる 1)。自力で現場から避難できない状態に陥った傷病者は、早期に症状が出現したことを示しており重症患者であるといえる。また、化学剤に曝露された傷病者が避難できずに現場にそのままとどまった場合、有毒物質を吸収し続け ることになり、時間経過とともにさらに危険性が増す。これに対応するためには、早期の救出と早期の医療的介入が必要である。早期の救出に関しては既に述べたとおりであるが、早期の医療的介入として解毒剤投与が重要である。神経剤による症状は、神経筋接合部のアセチルコリン過剰により、縮瞳、鼻汁、発汗、悪心・嘔吐、全身脱力、気管支攣縮が発生し、 意識消失、呼吸停止、全身痙攣が生じて死に至る 1)6)9)12)。特に呼吸筋の麻痺や気道分泌物の 著明な増加によって呼吸不全、呼吸停止が起きるため、神経筋接合部におけるアセチルコリ ン過剰状態を拮抗させることが最も重要である。
このような神経剤の症状に対して有用性が示されている解毒剤はアトロピンとオキシムである。アトロピンは神経筋接合部に大量に放出されたアセチルコリンの効果を遮断する。よって、動けない状況の傷病者に早期に解毒剤を投与して症状の進行を阻止・改善させること で救命できる可能性を高めることが期待される。また、神経筋接合部においてアセチルコリ ン分解酵素(コリンエステラーゼ)に結合した神経剤を遊離させるオキシムが有用である が、コリンエステラーゼと神経剤の結合は時間経過とともに強化され、オキシムの効果が急 速に失われる。これをエイジング(aging)という。半分のコリンエステラーゼのエイジングが 完成する時間はサリンで 5 時間、ソマンでは 2 分とされる 30)。早期の投与ができないと解毒剤としての効果が失われることからも、早期の解毒剤投与は非常に重要である(図 8)。
3. 化学テロにおける本邦医療チームの現状
汚染地域(ホットゾーン)や準汚染地域(ウォームゾーン)で医療活動をするためには、 PPE や解毒剤などの専門的装備とトレーニングが必要である。我が国の災害派遣医療チー ム(DMAT)は地震などの自然災害や大規模交通災害などを対象として構築されてきた。よって、現在の日本 DMAT 隊員養成研修、DMAT 技能維持研修では化学剤対応の十分な研修 は行われておらず、標準資機材の中にも化学テロで対応しうる PPE は入っていない。つまり、化学剤による多数傷病者発生現場に安易に DMAT などの医療チームの出動を要請することは有用性がないばかりか、危険性を高めることになりうる。化学テロにおけるホットゾーンやウォームゾーンでの対応は、専門教育を受け、日常的な訓練を実施し、業務手順に習 熟し、平時から緊急出動ができるように準備がなされた専門部隊が行う必要があることを強調する。
4. 医療の早期介入に関する課題と対応策
米国では州兵の大量破壊兵器市民支援チーム(Weapons of Mass Destruction- Civil Support Team ; WMD CST)31) 米国連邦危機管理庁(Federal Emergency Management Agency;FEMA)の危険物質対応チーム(HAZMAT response team)32)、英国では危険地域対応 チーム(Hazardous Area Response Team;HART)33) など、化学テロ発生時に派遣される専 門部隊がある。現場での医療判断と応急処置にも対応するメンバーを含み、汚染地域(ホットゾーン)や準汚染地域(ウォームゾーン)での危険作業に従事する専属部隊で、軍など公 的な機関において整備され、日常的に訓練を実施し、迅速な出動態勢を敷いている。非常に 危険性の高い現場で、他の消防隊員らと協働して医療対応するためには日常的な専門訓練に よる技能習得と業務手順の習熟が必要である。明確な指揮命令権の下で危険活動を実施する 必要があることを考慮すると、平時において医療機関での通常の医療に従事している民間医 療従事者を現場派遣した場合に安全を確保することは困難である。結果的に派遣したとして も十分な機能を果たさない可能性がある。
適切な医療を実施するための要件は、1日常的に救助対応する部隊として訓練を実施し、業務手順に習熟していること、2指揮命令下に本来業務(公務)として危険行為に従事すること、などが挙げられる。
自衛隊の衛生部隊はこの要件を満たす可能性があるが、現場に到着する時間を考慮すると、ファーストレスポンダーとして医療的介入の役割を全面的に担うのは難しいと考えられる。また、日常的な緊急対応を担う消防機関に属する救急救命士の活用も候補になると考えられるが、救急救命士による医療行為は、個別の症例ごとに医師の指示(メディカルコント
ロール)の下に特定行為を実施することが前提であり、多数傷病者に対する包括的な指示は認められておらず、たとえ解毒剤投与を特定行為として認めたとしても、現実的には、化学テロ時において、メディカルコントロールを前提とした運用を行うことには課題がある。
よって、現実的な対応として、下記のような検討が求められる。
・ 警察官や消防隊員、自衛隊員、海上保安官等のホットゾーンやウォームゾーンで活動する特殊部隊による解毒剤投与の実施
・ 迅速かつ早期の救護活動のため、神経剤に対する解毒剤の自動注射器の使用
ホットゾーンやウォームゾーンにおける解毒剤の投与は、医師法の定める「医行為」に該 当する可能性があり、医師や看護師等の医療従事者ではない特殊部隊員が実施することには ハードルがある。しかし、このようなエリアには医師や看護師等が容易に入ることができな いという特殊性がある一方で、解毒剤をいち早く投与しなければならないという緊急性が存 在する。このような点においては、一定の条件下で医療従事者以外の使用が認められている 自動体外式除細動器(Automated External Defibrillator; AED)などと同様に非医療従事 者による使用の条件を検討する方策が考えられる。
また、早期の救出のために、PPE や除染体制などに関して専門的設備に依存せずに対応することの重要性に関しては前述したが、自動注射器によって解毒剤を隊員が自らや同僚の 隊員に対して使用できる環境を整備することは、万が一の際の医療的介入の利用可能性の確保による安心感の醸成につながり、迅速な活動開始の推進に役立つと考えられる。
神経剤解毒剤の自動注射器は、現在日本国内で薬事承認がなされたものは存在しない。早期の薬事承認に向けた取り組みを行うとともに、喫緊の課題である化学テロへの対応の緊急性を考慮すると、未承認の医薬品であっても、緊急事態においては使用できる体制を整備することが望まれる。
X.警察捜査との連携の重要性
テロという反社会的不法行為に対して犯罪捜査は不可欠である。日常の平和な生活を営む一般国民が不幸な出来事に巻き込まれ、生命や健康を損なう事態に至った場合に、犯人検挙と裁判による正当な裁きを期待することになる。こうした観点から、犯罪捜査、犯人検挙と証拠保全は人命救助と同時に非常に重要な事項である。例えば、ホットゾーン内で救助活動
中に原因になった剤の位置を変えてしまうだけで、証拠性が失われる可能性さえある。そのために、警察の部隊は、証拠動画撮影のためのビデオ機器を早期に設置することを理解する必要がある。
また、剤の確保は優先度が高い活動である。なぜならば、揮発性の化学剤は時間経過で消失しうるうえに、時間とともに分解・変性してしまう化学剤が多いためである。証拠性の担保として早期押収は重要である。また、被災者の中に犯罪関係者が紛れ込んでいることも想定される。そのため、救助、医療、公衆衛生の対応者にとって、警察による人定作業に対す
る連携・協力と理解は欠かせない。こうした連携・協力の重要性は、「NBC テロその他大量殺傷型テロ対処現地機関連携モ デル」34)においても示されているとおりであるが、現行のモデルは、大まかな連携の在り方 を定めているに過ず、実際に事案発生時に連携をスムーズに行うには、現場活動を行う機 関間で事前に細部に渡る標準業務手順を決め、訓練で検証を行い、練度を上げておくことが 極めて重要である。
1. 消防当局・医療機関との連携
医療機関への搬送時、また搬送先の医療機関についても、警察との密接な連携を行うことは重要である。前述のとおり、被災者の中にはテロ実行犯が紛れ込んでいる可能性もあり、搬送先の医療機関がさらなるテロの標的になる可能性もある。また被害者の生体検体を使用した剤の同定や曝露状況の聴取などが有用な場合もある。警察との密接な情報共有により、さらなる被災者の発生を止め、原因の追究に寄与することができる可能性もある。
2. 公衆衛生・医療当局との連携
化学テロ事案においては、解毒剤の確保や疫学的調査、救護班の支援調整、広域搬送調整 等において公衆衛生・医療当局も関与する。例えば、米国においては、連邦捜査局(FBI) と疾病対策予防センター(CDC)が、CBRNE テロに対する犯罪捜査と疫学調査を合同で行 うための覚書を結んでおり、日常的に各州担当者に向けた研修を行っている 35)36)。実際に、 複数の州において連携モデルが構築されており、合同対応が実施されている。本邦において も公衆衛生・医療当局と消防、警察等の役割分担と協力については、地域特性を考慮したうえで対応手順を詰めることが肝要である。
おわりに
わが国でサリンが散布されるテロ行為によって、多数の被災者を出した不幸な事件発生か ら四半世紀が経過した。その間に諸外国で進められた科学研究から得られた新たな知見と、 化学テロの経験から得られた貴重な教訓、そしてわが国の国情などを融合させた検討を行っ た。これにより、将来の課題を含めて、現場対応者の安全を確保と、より多くの危機的な被 災者の救命を両立させた化学テロ発生時の病院前対応に関する提言を作成した。犠牲者を 1 人でも少なくするための検討資料として活用されることが望まれる。
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