バイオテロにおけるリスクコミュニケーションの重要性

リスクコミュニケーションとは、リスク情報を個人や社会の間で正確に共有し、その情報を適切に管理することによって危機を未然に防いだり被害を最小限にとどめるような情報交換のことである。有効なリスクコミュニケーションの前提には有効なリスクアセスメント(リスクの見積もり)が必須である。しかし、バイオテロは過去の事例も少なく、その見積もりを正確・迅速に行うことは極めて困難である。例えば炭疽菌の場合、もし100キログラムの炭疸菌がワシントンDCに散布されたらおそらく死亡者は最大で300万人に及ぶ可能性もある、という見積もりがされていた2)。しかし、2001年に実際に起きた郵便物による炭疽菌事件では22人の患者と5人の死者ということで、先の予想に比べれば実に小さな被害であった。バイオテロにおけるリスクアセスメントは、きわめて難しい。

その、2001年の炭疽菌事件のとき、米国疾病管理センターCDCは既存の知識を元に「パニックになるな、落ち着け」といういわば慎重論を展開した。何かコトが起きたときは、まず住民のパニックが最大の害になることが多い。このいわば「常識」にのっとり、CDCは炭疽菌など恐るるに足りず、心配しないでCDCのやることをみていろ、という態度をとったのである。

ところが、上院議員ダシュル氏のもとに炭疽菌入りの手紙が送られたとき、そんなに甘い話ではない、という事実が露呈した3)。陸軍の指導の下に全員が抗菌薬を投与され、炭疽症の予防を行ったワシントンDCの議会関係者からは一人も患者は発生しなかった。一方、CDCの勧告のもと「余計な抗菌薬は飲む必要がない」と言われた郵便局では(ここを経過してダシュル氏への手紙は郵送されたのだが)吸入炭疽の患者が発生し、そのうち数人は死亡するに至ったのである。既存の知識では「郵便物が通過した場所からの炭疽症の発生はありえない。不要な抗菌薬は飲むべきではない」と考えられていたのだが、テロに使用されていた炭疽菌が細菌表面の電位を除去するなど「兵器化」されていたこともあって、この常識が通用しなかったのだ。一方、「バイオテロというのはそもそも非常識な事態だ」というリアリズムに徹し、議会建物を封鎖し、関係者全員に抗菌薬を飲ませた陸軍の方が、結果として正しい判断を下したのである。このときの米国陸軍は妥当なアセスメントと判断を行い、他方CDCはリスクマネジメントのメンタリティーとその実践を欠き、正しいリスクアセスメントやリスクコミュニケーションを行うことに失敗していた、といえる。

2001年の炭疽菌事件では、当時のCDCのリスクコミュニケーション能力の不足が顕著になった。CDCは誰もが認める感染症界最大の機関であったが、バイオテロについてはその知識が不足していた。多くの専門家がCDCに助言を提供したが、その意見は聞かれることがなく、またCDCからの情報公開も滞った。関係者感で不信感が募り、その不信はCDCの失敗で死者が出るに至って決定的になってしまった。この反省を受けて、CDCは危機意識の高い組織として徹底的な組閣を行った。多機関とのコミュニケーション不足を払拭するために密な会議を何度も行い、バイオテロ専門のウェブサイトでは大量の情報が公開された。いったん誤りを認めたときの米国組織の動きは、はやい。

リスクコミュニケーションとは単なる緊急会見の方法論やメディア対策に留まらない。オランダのCDCに該当するCIDCにはコミュニケーション専門のセクションがあり、コミュニケーション・オフィサーというコミュニケーションの専門家が常勤している5)。我が国でもバイオテロに対応するための妥当なリスクコミュニケーションのシステムと質の管理を国、メディア、地域、医療機関や関係部署、各セクションで構築していく必要がある。

文献

  1. Ropaik D, and Gray G: Risk: A Practical Guide for Deciding What’s Really Safe and What’s Really Dangerous in the World Around You, Houghton Mifflin Company, 2002.
  2. Thomas V et al.: Anthrax as a Biological Weapon: Medical and Public Health Management JAMA 281: 1735-1745, 1999
  3. 最上丈二:バイオテロと医師たち、集英社、2002.
  4. http://www.bt.cdc.gov/
  5. 岩田健太郎:オランダには何故MRSAがいないのか? 中外医学社 2008